「なんで察してくれないの?」私がそう言ったとき、オーストラリア人のパートナーはこう言い返しました。「なんで直球を投げないの?」国際恋愛をしていると、愛情がないわけではないのに、なぜかすれ違う瞬間があります。私はその「なぜ」を、何度も何度も問い続けてきました。そしてようやく気づいたのです。文化が違うと、愛の翻訳が必要になるのだと。
日本の「察する文化」とオーストラリアの「言葉にする文化」
私は日本で育ちました。言わなくても気づいてほしい。空気を読んでほしい。態度や雰囲気で伝わるはずだ。そういう察する文化の中で、愛情とはそういうものだと自然に学んでいました。
でも彼の育ったオーストラリアでは、考え方がまったく逆です。言わないと分からない。言葉にするのが誠実。黙っているのは、共有していないのと同じなのです。
この違いに気づかないまま付き合っていた私たちは、何度も同じ場所でぶつかりました。私は態度で伝えているつもり。でも空気を読めない彼には届いていない。彼は正直に話しているつもり。でも私には攻撃的に聞こえる。
お互いに愛しているのに、どちらも傷ついていたのです。
直球は傷つけると思っていた私

実は私、子どものころは直球タイプでした。思ったことをそのまま口にしてしまい、友人を傷つけてしまったことがあります。そのとき感じた罪悪感が、ずっと心のどこかに残っていました。「言いすぎる自分はダメだ。」「察する側でいなければ。」そう思って、言葉を飲み込む練習をしてきたのだと思います。だから私にとって、遠回しに伝えることは気遣いでした。そして直接言わないことが優しさでした。
「まっすぐに言ってくれないと、誠意が感じられなくて傷つく」ある日、彼がそう言いました。その言葉は、本当に衝撃でした。私は相手を傷つけないために、直球を避けていた。でも彼にとっては、その配慮こそが傷になっていたのです。
続けて彼は言いました。
「臭いよ」も、「こうされると嫌だ」も、「今の言葉ちょっと傷ついた」も全部、言ってほしい。直球を投げることは僕にとっては攻撃ではなく、信頼の証なのだと。
直球を投げてみたとき感じた解放感

おそるおそる、練習するように直接言い始めました。最初はぎこちなくて、言いながら「傷つけてないかな」とドキドキしていました。でも彼の反応は、想像とぜんぜん違いました。むしろ、嬉しそうにしていたのです。
そしてそのとき、ふっと感じたのです。「ああ、私はこれでよかったんだ!」ずっと無理して飲み込んでいたものが、少しずつほどけていくような感覚でした。察することが優しさだと信じて頑張ってきたけれど、それは私にとっても、彼にとっても、ベストではなかったのです。
文化の違いに正解はない
日本では、言いすぎることは「気遣いが足りない」とされることがあります。 オーストラリアでは、言わないことが「不誠実」と取られることがあります。どちらも、相手を大切にしたいという気持ちから来ています。でも翻訳なしに届けようとすると、愛情が愛情として受け取られないことがあるのです。それが、国際恋愛のすれ違いの正体だと、私は思っています。
「察する愛」と「伝える愛」、どちらも使えるようになった今
今の私は、察することもできるし、直球を投げることも選べます。どちらかに固定するのではなく、自分で選べるようになったことが、一番の変化だと感じています。
文化の違いはなくなりません。これから先もいろいろな場面で言葉も文化も翻訳が必要です。でも、違いを理解できたとき、関係は確かに一段深まりました。文化の違いを譲り合うことも愛情表現の一つと捉えるようにもなりました。
国際恋愛は簡単ではありません。でも、難しさの向こう側に、同じ文化同士では気づけなかった景色があります。
あなたもその景色を見てみたいと思いませんか?

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