日常生活に溶け込んできた生成AI。日本での、AI利用率は約30%で、他国と比べるとまだまだ低い水準です。
AIを利用している人の中で「AIを使うか」「AIに使われるか」の分かれ道は、ITスキルやプログラミング力ではなく、プロンプト=言語化力だと言われています。
なぜ、日本人はこの言語化でつまずきやすいのでしょうか?その背景には、日本独自の「察する文化」と教育のあり方が深く関係しています。
私は日本とオーストラリア、両方の文化の中で生活し、日常的にその違いを体感しています。ここでは、実体験を交えながら、AI時代に本当に必要な言語化教育とは何かを考えていきます。
AI時代に求められる言語化力とは

AIは人間のように空気を読みません。そのため、曖昧な指示には曖昧な結果しか返しません。
何をしたいのか?どんな条件でどのレベルまで欲しいのか?何は不要なのか?などの指示を言葉で伝えることができる人だけが、AIを「道具」として使えます。つまりAI時代に必要なのは、自分の考えを分解し、構造化し、言葉にする力なのです。
日本語は言語化しなくても通じる言語
私が日常で強く感じるのは、日本語は驚くほど言語化を省略できる言語だということです。
私はパートナーとの会話で、オノマトペや擬音、ジェスチャーや文脈共有だけで会話が成立する場面が多々あります。
一方で、英語話者と日本語で会話をする時は「日本語は主語がないから何のことを話しているのかわからない」「誰が・何がを言ってほしい」という指摘を頻繁にされます。
日本語では主語を省略することが自然であり、察することが前提になっています。これは人間同士の関係では大きな強みですが、AIとの対話ではそのまま弱点になってしまうのです。
オーストラリアでは「言わない=存在しない」
以前は、オーストラリア人の集まりに参加する度に「本当によくしゃべる人たちだなぁ」と感じていました。でも、よく聞いていると、これはただ単におしゃべりだからではないことに気づかされます。すべてを言語化しているから、必然的に語彙数が多くなり、話す量のボリュームが増えていくのです。
今何を考えているか、どう感じたか、なぜそう思ったのか。これらを言葉にすることが、会話の前提になっています。意見を言わなければ、「何も考えていない」「関心がない」と受け取られてしまう社会なのです。
日本人の会話がおとなしく見える理由
一方、日本人同士の会話は、落ち着いている、間がある、言葉が少ないと感じられることが多いです。これは語彙が少ないからではありません。言葉にしない部分を、お互いに察し合っているからです。これは日本人独特の「察する文化」で美徳とされています。しかし、通用するのは日本人同士だけです。もちろんAIの前では通用しません。AIは察しないからです。
説明が多い日本人と静かなオージーの間で
私は、日本とオーストラリアのちょうど真ん中の立場にいます。
オーストラリア寄りに言語化を徹底すると、日本では「説明が多い」「細かい」と言われます。逆に日本の察する文化に寄ると、オーストラリアでは「おとなしい」「つまらないのかな?」と思われてしまいます。その都度、思考のスイッチを切り替えるという日常です。この経験から、言語化力は性格ではなく、環境によって鍛えられるスキルだということを実感しています。
日本の教育と「察する力」
長年、日本の教育は、「正解を当てる」「空気を読む」「みんなと同じであること」を重視してきました。自分の考えを言葉にして説明する訓練は、決して多くありません。
その結果、問いを立てるのが苦手、要求を言語化するのが怖い、曖昧なままにしてしまうという傾向が生まれています。
オーストラリアの教育が育てる力

一方、オーストラリアの教育では、「どう思った?」や「なぜそう考えた?」が常に問われます。
正解よりも理由。沈黙よりも言語化が大切にされています。この環境は、AIとの相性が非常に良いと言えます。
AI教育に本当に必要なこと
AI教育というと、プログラミングやツールの使い方が注目されがちです。しかし本質はそこではありません。本当に必要なのは、目的を言葉にする力、条件を設定する力、欲しい結果を具体化する力です。つまり言語化教育こそ日本のAI教育に必要なことなのです。
まとめ
日本の察する文化は、人を思いやる力を育ててきました。これは決して捨てるべきものではありません。
しかしAI時代には、察する力に「言語化」という補助輪をつける必要があります。文化を否定するのではなく、アップデートする。その視点こそが、これからのAI教育に求められているのではないでしょうか。
